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第2回目は、“タイル業界の風雲児”との呼び声高い株式会社中村タイル工業(富山市)代表取締役の中村敬太郎さんです。
格闘家顔負けのガッシリとした体格に、温厚な笑顔。その人柄から業界内外のファンの多い中村さんに、タイル職人としての本音を聞いてきました。
ラボ
タイルをふんだんに施したおしゃれな社屋ですね!
中村さん
今年1月に引っ越してきました。以前の本社より少し山手になるんですが、この上滝地区にうちの若いスタッフが3人住んでいて、その子たちの地元にかっこいい会社を作ってあげたいなと思ったんです。「あー、あそこの会社に行ってるの?」と話題になれば、それだけでも彼らにとって価値があるだろうと思って。会社らしくない建物にしたかったので、こんな感じになりました(笑)。
ラボ
中村さんがタイル職人を志したキッカケを聞かせてください。
中村さん
叔父さんがタイル職人をしていて、父もそこで一緒に働いていました。親父の背中を見て…といえばカッコいいですが、僕は反抗期が長くて親にも散々迷惑をかけてきました。16歳で高校を辞めてしまい、「じゃあどうするか?」と考えた時に、親父と同じ仕事を継げば、少しは親孝行になるかなと。それが始まりです。
ラボ
そこから、自分で会社を立ち上げるまでの道のりはどうでしたか?
中村さん
叔父さんの会社で12年ほど働いた頃に、国家試験の「一級タイル張り技能士」を取りました。その時に叔父が、「年寄りが上にいると若い子たちが上がってこれない。我々は身を引こう」と同業3者の同意を得て、自ら廃業したんです。業界繁栄のためにも若い子に道を譲ろうと。なかなかできることじゃないですよね…。それがきっかけで、28歳の時に独立しました。
ラボ
独立後は順調でしたか?
中村さん
全然ダメですよ(笑)。自民党から民主党政権に変わり、公共事業が一気に無くなって…。他社がリストラを進める中で、ウチはその逆を行こうと迷いながらも人を増やしていったんです。自分の給料が3ヵ月出ない時もありましたけど、“10年後の自分の右腕を育てればいいじゃないか!”と。笑われたりもしましたけど、そこは我慢でした。実際、当時16歳だった子が今は28歳になって職長でバンバンやってくれているので、あの時の選択は間違っていなかったと思っています。
ラボ
中村タイル工業さんの名前は住宅業界でもかなり有名ですね!
中村さん
それこそ独立して間もない頃に、ビル1棟の工事を長い月日をかけて仕上げたにも関わらず、結局赤字だったという苦い経験をし、その頃からメインを住宅工事にシフトしました。今は1日4〜5軒のペースで住宅のタイル工事を手掛けています。富山県の年間の新築軒数から考えると、1/6をウチがやらせてもらっています。
ラボ
ものすごい実績ですね…。
中村さん
今、富山に大きいタイル屋がないんです。独立した当初、130社あったタイル屋さんも、今では42社。そのうち2人以上でやっているのは4社だけ。他は65歳以上の一人親方さんなんです。それをどう捉えるかですね。先がないな?と思うのか。ビジネスチャンスと思うのか、かなと。うちは従業員が13人いて、うち7人が20代。みんな戦力としてバリバリ活躍してくれているので活気もありますし、会社の規模でいえば県内では一番だと思います。
ラボ
これだけ忙しい中で、一般の方に向けたワークショップも積極的に開催されていますね。
中村さん
社屋2階で定期的に開いています。高齢の方から親子連れまで色々な方が参加してくれています。タイルは、丸もあれば四角も菱形も三角もある。丸を半分に割れば半円になって、ちょっと工夫を加えるだけで無限の可能性があるんです。小さなお子さんや一般の方の自由な発想が、僕たちにはすごく勉強になっています。
ラボ
「職人」としての面白みはどんなところにありますか?
中村さん
技術が上がればスピードアップしていくし、手掛けた仕事が形としてずっと残ることですかね。タイルって、結局は建築の化粧なんです。タイルには綺麗なものもあれば、そうでないものもあり、タイル次第で建物の価値は変わると思っています。何十年後にも「ここはウチがやったんだよ」と言えるのは嬉しいですよね。皆さんの目につくところでは、県庁の議事堂、最近では総曲輪BASEの店舗(酒場ヤマ富)や上層階のマンションも施工させてもらいました。
ラボ
今後の夢や目標はありますか?
中村さん
んー、そうですね。自分で会社をやり始めてからは、自分の家族よりも「社員の家族が一番」でやってきました。事務員や営業の人員を増やすくらいなら、職人に還元するというのが僕の考え方です。この業界の中で、一番給料が当たる会社にしたい。うちのスタッフを見て、周りの人たちが「タイル職人って儲かるみたいだよ!」って言ってくれるくらいになればいいなと思っています。