連載記事
テーマに沿って10名の建築家・建築士が建築設計への想いや考えを綴り、バトンを繋ぎます。
第5弾のテーマは「建築設計の楽しさ」です。
※毎週火曜日に掲載
コラレアルチザンジャパン
テーマ vol.48建築設計の楽しさ
「『見えない未来』に賭けてみる」
ついに第5回目!最終回となりました。自由奔放にここまで書かせていただいたこと、編集長の森口新悟さんには頭が上がりません(笑)。
さて、最後の回のテーマは建築設計の楽しさです。ここまでお付き合いいただいた皆さんはご存じかと思いますが、私は建築設計を主軸に生業にしながらも、ホテルや飲食店、ギャラリーやアロマ体験施設まで多くの事業をしている建築家、言うなれば「建築起業家」でしょうか、今までの既成概念にはない風変わりな仕事をしています。なぜそんな仕事をするに至ったのか、前回からの続きを踏まえてお話しをしていきます。
馬清運氏率いる建築設計事務所MADA s.p.a.m.に勤めて3年半、チーフデザイナーとしていくつもプロジェクトを任せていただけるようになり、大きな国際設計コンペの担当者として海外プロジェクトにも多く携わるようになりました。
ただ、その頃からか建築面積が十何万平米という大規模な仕事に関わっているなかで、設計期間中にも関わらず事業そのものが別の不動産ディベロッパーに売却され所有者が変更、政治的な理由で建設が頓挫する等、つくり手としてのもどかしさや無力さも感じ始めていました。
前回もお伝えした通り、建築は政治や経済と密接な関わりを持っており仕方ないと言えばそうなのですが、つくる(=デザインする)という行為自体が、政治経済を盲従するのではなく対等で健やかな関係性を築けないかと考え始めました。
そこで様々なご縁もあり2011年に、建築に関わるオーナー(建築主)をトップにする従来のカタチではなく、オーナーも設計者も職人もヒエラルキーのないフラットなチームで、ものづくりが出来ないかと考えトモヤマカワデザインという小さな建築デザイン事務所を立ち上げました。
最初の仕事は約80平米のバー。何万平米というスケールから急に100平米にも満たない小さなプロジェクトで戸惑いもありましたが、地方から上海に出てきた若い女性オーナーの熱意に心を動かされ引き受けることにしました。
実際は、設計費どころか工事費もままならない予算で完成できるのかと不安はありましたが、オーナー自ら現場に泊まり込み、田舎の親戚から借りてきたお金を無駄にするわけにはいかない!と毎日事務所に来ては職人さんと3者で熱い議論を繰り返し、共につくり上げていきました。本当に楽しい時間でした。
この時の経験は、いまのコラレアルチザンジャパンを立ち上げる礎になったと言っても過言ではありません。ちなみに、その女性オーナーはその後、上海に数店舗の飲食店を持つ女性実業家として今も活躍中で、新規出店の度に声をかけられる、いわば戦友みたいな関係です(笑)。
その後、順風満帆に仕事を拡大!という予定だったのですが開業から約半年、2012年9月に起こった日本政府の尖閣諸島3島の国有化を契機に、中国国内の反日運動が激化。受注して進めていたプロジェクトは全て白紙になり、貯金がどんどん底をついてきました。
ついには、全財産1500元(当時のレートで日本円約2万円)までになり航空券も買えない、家賃も払えないという状況になりました。今思えばかなり危険な状態だったと思いますが、私を信じてプロジェクトを託してくれた中国の方々は「本当に申し訳ない、今しばらく我慢して欲しい」と私の身を案じてくれ、逆に政治を理由に「つくること」を諦めてはいけないと強く思いました。
今でも日本と中国は政治的摩擦が絶えませんが、民間で付き合う中国人は本当に良い方ばかりで、一度契りを交わした友人は死ぬまで助ける。まさに歴史・三国志の世界ですが、そのDNAは今でも息づいているように思います。
とはいえ、このままだと日本に強制送還の可能性もあり、どうにか仕事をつくらなければ!と、方々を営業して駆け回り、そこで出会った日系の建設会社の総経理(日本で言う社長)の方から、今度日本のアパレルショップを中国で展開したいと話があるので代表に会ってみないかとお声がけいただきました。
藁をも掴む気持ちで手がけさせていただいたのが、日本の大手紳士服メーカー・はるやまの若者向けスーツブランド「P.S.FA」でした。
当時、中国には日本の会社員のようにスーツを着用して毎日会社に出勤するという文化がなく、店舗デザインだけでなく、商品企画から流通、販促等のゼロから中国でのスーツ文化を作り出すお手伝いをさせていただいたことが素晴らしい経験になりました。そして何とか生き延びることができました(笑)。
しかし、その経験と同時に物足りなさも感じはじめていました。建築は物件を引き渡してしまうとそれで終わり。しかし経営者にとっては、そこからがスタートなので、経営者の悩みにもっと長く寄り添っていきたいとの気持ちが高まってきました。
ということで、中国での経験を書き始めるといっこうに話が進まないので割愛しますが、その後、何度も死ぬかも…という経験をしながらも6年半にも渡る中国生活を終え、2016年に日本に帰国、富山県の井波に居を移しました。
その後、様々な運命的出会いを重ね、日本初の職人に弟子入りできる宿・Bed and Craftを開業するに至りました。開業にいたる経緯やきっかけなどは多くのメディアで取り上げられているので是非検索してご覧ください(なんか突き放す感じですいません)。
なんだかスターウォーズのダースベイダーがいかにしてダークサイドに堕ちてしまったのか、そんな過程みたいになってしまいましたが(笑)、普段メディアでは表に出ることがないBed and Craftの生誕秘話は、まさしく私自身が経験してきたことが拠り所になっています。
全5回を振り返ってみると、
①すべてのものは個の「つくり手」から生まれること
②素直に、職人と一緒に、地域に「馴染むよう」につくること
③「建築のまわり」を理解すること
④建築家が自ら「プログラム(機能)」をつくりだすこと
そして、
⑤建築は政治や経済と「健やかな関係」を築くこと
これが私自身がものづくりをするうえで大事に考えていることです。もちろん、建築は美しく、心地よくあるべきだと考えていますが、オーナーに与えられた条件(予算や機能等)だけを鵜呑みにして設計を行うことだけが正解ではないということ。建築は豊かな暮らしを生み出す様々なツールとして理解しておくことが大切です。
前述した「なぜ建築起業家をやっているのか」という問いに関しては、私自身が建築の「つくり手」であると同時に、その「つかい手」となり自身が運営者となることで建築に関わるオーナーや職人、そしてその利用者まで多くの方々の気持ちを理解し、寄り添いたいと思っているからです。全てにおいて体験に勝ることはありません。情報化社会が進み簡単に未来が見通せてしまう世の中だからこそ「見えない未来」に賭けてみる。そんな生き方も楽しいと思います。
私の話に感化されてチャレンジするみなさん、ぜひ生きて帰ってきて下さいね!(笑)
ではまた!